東京フリーダイビング倶楽部 |
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1999年7月、エジプトの紅海で行われたフリーダイビングの世界大会に、市川和明という男が参加しました。そして、彼は本番の競技で-50mまで潜りました。本来ならベスト10に入る輝かしい記録です。しかし、彼は失格となってしまいました。競技規定で1回しか許されていないのに、彼は興奮のあまり2回もロープを握ってしまったのです。 それでも彼は、多くの外国人選手に認められ、友人として受け入れられました。つたない英語で苦労しながらも、楽しいコミュニケーションをとっていました。ところが、日頃の練習の話題となったとたんに話が合いません。彼はショックを受けました。成績上位を占める各国のナショナル・チームのメンバーに聞かされた練習のあり方が、出発前に彼が行っていたトレーニングとは、あまりに次元の違うものだったのです。 「これでは勝負にならない」。 帰国後、協力者でもある友人たちを中心としたグループで、何度も海に通いました。知人にボートを借りたり、魚群探知機を強奪したりして練習しました。しかし、やはり仲間が集まってやっている程度では、各国の練習には及びもつきません。そして、よりハイレベルの練習のできる環境をつくるためには、組織化する必要のあることを痛感したのでした。
その後、2000年8月に行われたスイス・レマン湖畔モントルーでのワールドカップに、プライベートチームとして、参戦。暫定で4位。その後の協議の結果、堂々の3位入賞と、世界にその名を知らしめることとなり、なんと海外の選手のなかからも、会員になりたいとのオファーが相次ぎました。ところが、その内情はというと、哀れなものでした。スイスから帰国するとすぐに、若手のホープ、蛯名は沖縄の魅力に取り付かれ、さっさと引っ越してしまい、たまに電話がある程度。倶楽部の責任者としてがんばらねばならない市川は、クジラを探して南太平洋に飛んでしまいました。残った兵頭がなんとか友人の協力のもと、辛うじて世界大会への調整を続けているという状態でした。 そこに現れたのが小沢直哉氏。市川の元会社の上司で、海仲間。見るに見かねた彼が、倶楽部を倶楽部らしくするために、理事に就任し、その手腕を発揮しました。新たなる世紀の始まりである、2001年、早春のことでした。 2002年春 repoted by kajitori東京フリーダイビング倶楽部 |
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